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2014年6月21日 (土)

ふと、PHSが生き残っているのは奇跡に近いと思いだした事

TwitterでTD-CDMAだのYOZANだのの話をしててあらためて思った。PHSがここまで生き残ったのは奇跡だったんだなって。

少し(って47のおっさんの少しな)遡ってみれば、移動体で初めて嵐が吹いたのはマリネットグループだろう。ケータイ自由化の前ですらあるが、当時は携帯電話は意図的に海側に電波を吹く事は禁じられており、船舶の電話はドコモが分離する前のNTTのみが船舶電話を提供していた。自動車電話やケータイとは無線区間の互換は無く、バックボーンも独立して持っていた事もあって基本料金もかなり高かった。そこへ東京湾内や瀬戸内海など内海中心だが、格安の船舶電話をマリネットグループが提供する事になって、NTTも焦りは隠せなかった。当時NTT移動体関連会社の中の人だったのだけど、結局マリネットグループにはNTTも保険的に資本参加してた記憶がある。IDOやセルラーグループがサービスインする前の話でもある。

しかし結果は散々。そもそも船舶電話を必要とするのは富裕層のクルーザーか漁船がほとんどで、サービスエリアがやはり重要で料金は二の次だった。関東だとクルーザーの留め置きは葉山マリーナが多かったはずで、その近辺で使えない船舶電話なんて、みたいな話だったらしい。基本料金が1万とか2万安いなんて事は大した問題では無かった訳だ。結局当時の郵政省はIDO/セルラーグループに引き取らせてシステム自体も10年程で消えてしまい、携帯電話の電波も海側に向かっても吹くようになった。

これ以外にも次世代の双方向ポケベルって事でQメールなんてサービスも登場したが、僅か1年半でドコモに営業譲渡している。こちらはモロに携帯電話の普及にやられた訳だが…。

PHSも本来は同じような運命だったのかもしれない。現に都市部では携帯電話とそれほど変わらないレベルまでエリアカバーを広げたが、NTTパーソナルもASTELも果てた。NTTパーソナルは電話ボックスや電信柱、電力会社資本が多かったASTELは電柱というそれぞれ有利な設置場所を持ち、携帯電話に負けじと基地局を打ちまくってアステル東京は営業区域の関東だけで10万局の基地局を持っていた。しかしその過剰とも言えるインフラの維持が課題となり、NTTパーソナルもASTELも収益性が改善しなかった。それぞれ親会社が巨大だったがゆえに無茶な投資ができた事が寿命を縮める事になったとも言える。

一方DDIポケットは先に上げた2社とは立ち上げから様相が違った。親会社はDDIグループ、筆頭は京セラと言える。基地局は多くを新たに確保する必要があり、数を打つという点では明らかに不利だった。そこでDDIポケットは少ない基地局数でエリアカバーを広げられるように見通しで半径500mをカバーできる出力の高い基地局を使い、基地局は建物の屋上を使うほか、土地を間借りして自社で多くの電信柱を立てた。結果エリアカバーは競合に対抗できたが、収容力には劣った。PHSはアンテナ1つで原則4通話分しか確保できない。エリアカバーの広さから地方部では人気も出たようだが、都市部では基地局を打ちまくったNTTパーソナルに人気を奪われた。

一方でDDIポケットは当初から先を見越していた。この話を聞いた当時は公開はNGだったが、もう時効だ。DDIポケットは最初からパケット通信の導入も考慮しており、通信方式がどうなっても対応できるように基地局の制御ユニットには汎用性の高いx86のワンボードPCを使ってほぼプログラマブルにした。組み込み用という事もあって当初のCPUは80286だ。制御用のソフトウェアはリモートでダウンロード、適用が可能になっており、基地局には誰も出向かずに全国一斉に基地局のバージョンアップも可能だった。実際AirH"でパケット通信を開始する時にも物理的な工事は行っていない。当初のAirH"が1基地局辺り1波しか分しかパケット通信に回せなかったのは、この初期型の基地局の処理能力の問題があったからだ。その後ソフトウェアの改善で制御ユニットはそのままに32Kbpsを2波扱えるようになったりもしている。寿命の問題もあり制御ユニット自体の世代交代は行われているが、その基本は変わっていない。もちろん当時の親会社にあたるDDIグループに資金力が無かった訳では無く、事業としてきちんと将来的なコストも考えていたのがDDIポケットだけだったのだ。

対するNTTパーソナルは電話ボックスなどに基地局を設置するスペースの都合もあったが、制御ユニットは小型のカスタムボードを使った。PIAFSの対応でボード交換になり、さらに64Kbps対応でもボード交換をしている。この辺は私の元上司が管轄していたりしたので、愚痴も聞いたw。とにかく専用品に拘るらしい。もちろんその方が耐障害性などに秀でるという理由も有ったらしいし、買収したドコモから見ればiモード人気で帯域の足りない当時のMOVA(PDC)で低料金のモバイルデータ通信サービスを提供する事が難しく、回収できない投資でもせざる得なかったという一面もある。ASTELに至っては64Kbps対応は2台の端末を使ってマルチリンクするという力業だ。この時点でASTELグループはほぼ全てが大株主だった地域毎の電力会社に吸収されていたが、基地局を改修する投資する将来性も無かったのは明白だった。後にウィルコム沖縄の実質的な母体になる地域トップシェアで経常利益も計上していたASTEL沖縄を除けば。

結果は今更語るべくもないが、生き残ったのはDDIポケットだけだった。競合2社が撤退する事で3社共有だった帯域をすべて使えるようになり、これがデータ通信に注力していた時代にもその後の音声定額にもプラスに働いたのも事実。PHSは携帯電話と異なり1つの周波数帯を3社で共有して空きチャンネルを自動で使うシステムだったのだ。しかしDDIポケットが生き残った根っこは、DDIのスピリッツだと今でも思っている。

DDIは固定の市外電話サービス参入時、唯一流用できる資産を持たなかった。日本高速通信は親会社が日本道路公団とトヨタで有り、高速通り沿いに設置された光ファイバーが使えた。現在はソフトバンクに買収されている日本テレコムの親会社はJRで、新幹線沿いに引かれた光ファイバーが使えた。逆説的に言えばこの2社は中継網を設置する基礎があったから長距離電話に参入したのだ。DDIはこの2社に光ファイバーの借用を申し入れたがほとんど交渉の余地も無く断られた(らしい)。そこでDDIは専用線を保有していた都市部以外は山中の尾根沿いに鉄塔を建ててマイクロウェーブで中継網を作った。全国対応こそ日本テレコムに遅れをとったが、結果的に広義の第二電電ではトップに躍り出た。DDIポケットのサービス展開には何らかの形でDDIの経験やかつての企業精神が生かされた事は間違いないと思う。そうでなければとっくにPHSなんて終っていただろう。生き残っている事自体が奇跡に近いのかも知れない。

そのDDIポケットは往事の見る影も無い会社になった上で、イーモバイルに吸収合併されてしまったわけですけどね…orz。


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